2015年8月30日日曜日

「いじめ」について考える

小学校教諭のY・Sです。 

最近また,いじめの問題がニュースなどで騒がれています。いじめは卑怯であり,暴力であり,人間として許されざる行為であることは言うまでもありません。また,いじめを受ける側の苦痛は計り知ることができないものでしょう。では,いじめをなくすにはどのような指導が適切なのでしょうか。 一般的には,「いじめは絶対に許されない行為である」ということを児童・生徒に訓示する。「相手に対する思いやりの気持ちをもとう」と呼びかける。「いじめを見たりされたりしたら,すぐに親や先生に報告する」といった指導がなされているようですが,果たしてこれでいじめは無くなるのでしょうか?
 私は,“人間という動物は本能的に弱い者に対して残酷な行為をしたくなる”と思っています。しかし,それはあくまでも人間の肉体的本能の側面からみた性質です。これを「人間神の子」という側面からみれば,“弱い者や一見未熟な者に対してもっとよくなってもらいたい”という愛の念と捉えることができると思います
 ここで私が以前に経験した事例を挙げてみます。
 数人の男児がある一人の男児を小突いたり,授業中に発表したりすると笑ったりするという行為がみられました。(小学校中学年だったと思います)私はその度毎に「何をしてるのかな?」「なぜ笑うのかな?」と穏やかに対応していました。しかし,どうやらそれらの行為は私の見ていないところでも行われており,エスカレートする寸前であったようで,保護者からそれとなく見守ってほしい旨の言葉が連絡帳に書かれていました。(もちろんそのことは上司に報告)私は早速その“いじめっ子達”と話をしました。まず,事実を確認した上でだいたい次のような話をしました。
 
 T「君たちはA君(いじめられている男児)をどう思っているの?」
 S「なんかイライラする。」
    S「見ているとむかつく。」
 T「そうか。どんんなところにイライラする?」
 S「なんか,情けない。はっきりしないところ。」
 S「根性がない。弱すぎ。」
 T「そうか。確かにA君は,君たちより体は小さいし,勉強にも自信をもっていないよ  うだね。」 
 S「でしょう?見ていてなんかこう,むしゃくしゃする。」
 T「じゃあ,君たちはA君が嫌いなのかな?」
 S「嫌いじゃないんだけど何か黙ってられないんだ。」
 T「ということはA君のことが気になるということだね。」
 S「まあ,“うざい”から気になる。」
 T「そうか。まあ,うざいという言葉はよくない言葉だけれど,A君に関心があることは分かる。」 
 S「関心・・・?」
 T「つまり早い話が,君たちはA君が“好き”なのさ。」
 S「え~。好きじゃないし~。」
 T「じゃあ,どうなってほしいんだい?」
 S「もっと強くなってほしい。」「もっとしっかりしてほしい。」「男らしくなってほしい。」
 T「ほら!もっとこうなってほしいという気持ちがあるじゃないか。先生だってみんなにもっと勉強ができるようになってほしい。もっと根性を出してほしい。もっと思いやりをもった行動ができるようになってほしい。そう思うからときどき厳しくするんだ。でもそれは先生がみんなのことが好きだからだ。嫌いな人によくなってほしいという気持ちは起きないよ。」
 S「そうかなあ・・・?」
 T「これからA君とどうやって付き合っていくのがよいのか,考えてみてごらん。」
 S「・・・・・。」
 
 その後,子ども達の様子を見ていると,A君に対して「がんばれ!」とか,授業中に答えが当たったときなどに「おお~。」といって拍手をする場面が見られるようになりました。特にA君の鉄棒の逆上がりの練習を例の“いじめっ子”達が応援している場面が印象的でした。私はそっと遠くから見守っていたのですが,A君が逆上がりに成功したとき「やったー!」という大歓声が湧き,みんなで私に報告しにきたときの場面は忘れられません。A君はうれし泣きしていて,それにつられたのか“リーダー格”の男児がもらい泣きしていたのを見て,私もついほろりとしてしましました。 
 そうです。“いじめっ子”は本来いないのです。“いじめ”とみられる言動の奥には,相手に「もっとよくなってほしい」「本当はそんな情けない君ではないんだぞ」といった励ましの気持ち,愛念があるのです。子どもはまだ表現が未熟なため,それを極端な形で表現してしまう。その一つが“いじめ”につながってしまうのではないかと思います。
 私たち教師は,いじめを絶対悪として捉えるのではなく,児童・生徒の中にある神性・仏性が歪んだ形で現れていると観て,適切な助言を与えることがいじめという現象を無くすひとつの糸口になると考えます。
 

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