2014年1月19日日曜日

「拝む」ということ

小学校教諭のY・Sです。

今日は,私が教師になってからずっと続けてきた子どもを既によいと信じることのできる「奥義」をご紹介します。
 

 「奥義」というと何かとてつもなく難しいように聞こえますが,誰にでもできることです。それは子どもを「拝む」ことです。よくしようとして「なんとかその悪い習慣や心を改めてください」と懇願するのは本当に拝んだことになりません。「既によいからそのよさを観じて拝む」のです。具体的には,学級の集合写真を机の前やよく見えるところに置き,1人一人の子どもに向かって,「○○さん,あなたはすばらしい!何でもできる強い子よい子です。将来社会の役に立つ国の宝です。」というような思いつくよいことを語りかけるのです。自宅に神棚がある方は神棚の下に写真を置くともっと効果的です。

 これを続けていくと子どもがよくなるのではなく,私自身の子どもを観る心が変わります。まさに「見られるものは見る人の心の影」「主・客同体」です。心理学ではリップスが「感情移入」という言葉で表現していますが,それ以上の「観る力」であり「想像力は創造力」であると言えます。

 かの有名なアクションスターであり武道家でもあったブルース・リーの名台詞に
   「Don't think feel !」=「考えるんじゃない。観じるんだ。」
というのがあります。さすがに一つのことを極めた人の言葉ですね。

 どうか子どもの「よさ」を観じ続けてください。それも教師の尊い仕事の一つであると私は考えています。

ー立ち向かう 人の姿は鏡なり 己が心を 映してや見むー   ー黒住 宗忠 公ー

2014年1月13日月曜日

楽しかった卒論指導

大学教授のM. Y. です。

この年末年始は卒業論文提出の時期でした。私の大学では計4日間の提出期間だったのですが、私のゼミ生8名は、その全員が最終日を待つことなく、三日目までに順調に提出してくれました。
      卒論の出来具合としては、優秀なものもあれば、合格レベルに何とか達しているだけのものもありました。ですが、直前になって慌てふためくことなく、全員が余裕を持って提出できたことは、指導者として、とても安心できることでした。
          そのように安心して導けた要因は何だったのか? それには幾つかの要因がありましたが、今回は、その中で最も大きな要因だったものを書かせていただきます。それは「明るさ」です。
              3年生の時から約2年間かけての指導でしたが、ゼミの授業では、いつも明るく進めることを心掛けていました。たとえ学生が失敗をしたとしても、それを責めるのではなく、明るく笑い飛ばして、激励鼓舞していくようにしていました。そのおかげで、私のゼミ学生たちは皆、明るく伸び伸びと取り組んでくれていたように思います。
                  前生長の家総裁・谷口清超著『愛と希望のメッセージ』(日本教文社)という本では、「楽しく働こう」と題して、次のようなエピソードを紹介されています。
                    ---〈以下引用〉---
                          昭和五十九年の甲子園の野球では取手二高が優勝した。その原因の一つに「明るさ」があった。木内監督の指導がよく、いつも野球をたのしむという気分が充ちあふれていたので、四対四の同点になり、PLとの戦いが延長されても心配せず「延長できてうれしい」といった気分だった。従って、新聞評にも「笑って勝ってしまったようだ」と書かれたぐらいである。
                              何事をやるのでも、たのしく生々と、のびのびやることが大切で、これは光明化運動をやる時も同様である。いつも悲壮感を漂わせ、しかめつらをし乍(なが)ら、ハチマキをしめ歯をくいしばっていると、実力が出て来ないし、その暗い心が暗い運命を引きよせるのである。野球でいうと、ホームランを打つところが、わずかの差で三振に打ちとられるといった結果に終る。
                                〔中略〕
                                      あなたの勤めている仕事場で「たのしく働く」のはとてもよい事で、それでこそ仕事もうまく行く。そのあなたの明るさは、単にあなただけにとどまらず、あなたの部下や上司にも拡大するからだ。あなたの家庭にもひろがり、妻や子が生々とする。夫や父の明るさは一家の運命に関わる一大事である。何をやるにしても、明るく、たのしくやることだ。ことに仕事は、楽しみながらやることによって、大成するのである。〔後略〕
                                        ---〈以上、『愛と希望のメッセージ』32〜34頁から引用〉---
                                          この引用部分の最後の段落に書かれていることは、大学のゼミにおいても、まさに当てはまることでした。教員の明るさが学生たちに広がったことで、ゼミ学生たちはみんな、実に伸び伸びと、明るく楽しく、意欲的に卒業論文に取り組んでくれました。
                                              ですので、大学教員の皆さんには、まず自分自身が「明るく楽しく働く」ことをお勧めします。それが「楽しい卒論指導」につながりますので…。

                                              2014年1月4日土曜日

                                              子どもを「良くしてはいけない?」


                                               私がまだ新米教師の頃,ある先輩の先生から「子どもをよくしようとしてはダメだぞ。」という助言を受けて考え込んだことがあります。私たち教師の仕事は子どもたちを“心身共に健康”に成長させることなのに…?そのとき私は変な猜疑心を抱きました。
                                               

                                               学校を単位とする教育界も大きな組織です。組織には当然規則・規範がありますが,いわゆる“不文律”も存在します。学校にもそんな不文律があるのだろうか?事実,「自分の学級は,1年間,問題なく普通に無難に過ごして次の学年の担任に引き継げばいい」そう割り切っている先生もいないわけではありません。でも,「私にはそんな“器用なこと”はできないなぁ。」としばらく悩みました。また,子どもたちに“日本人としての誇り”をもたせることをタブーとする「せんせいたち」がいることも否めません。
                                               

                                               それでも,私は自分の信念を貫いて精一杯子どもたちと向き合ってきました。時には,「Y先生のクラスの子どもたちはどうしていつも立派なの?」とか「Y先生が受け持つと問題児が問題児でなくなるのはどうしてかな?」などという嬉しい噂をされたこともあります。ある年などは,学級崩壊したクラスを引き継ぎ,1ヶ月ほどで“普通”の学級にしてしまったために,前年度の担任から嫉妬されたこともありました。「やはり普通に,無難に子どもたちと接するのがいいのかなぁ。」そう思ってスランプに陥ったこともありました。
                                               
                                               

                                               ところがあるとき,私が教師になってからずっと続けてきたことが,その先輩の先生の言葉の真意だったことに気付きました。確かに「子どもをよくしようとしてはダメ」なのです。「子どもは既によい」のです。それを心の底から信じるのが教師の役目であり,同時に自らの研修なのです。教育とは何とすばらしく尊い仕事なのかをあらためて自覚した瞬間でした。
                                               
                                               

                                               次回は私が教師になってからずっと続けてきた子どもを既によいと信じることのできる「奥義」を披露したいと思います。お楽しみに!

                                              2014年1月2日木曜日

                                              年頭の一首

                                              読者のみなさま,あけましておめでとうございます。
                                              小学校教諭のY・Sです。
                                              新年のご挨拶の代わりに和歌を一首詠みました。自己流で時々詠んでいますので,その道のプロの方が見れたなら恥ずかしいのですが。
                                               

                                               幼な児の 清き瞳に宿る灯を 
                                                          拝しつ今日も 教壇に立つ

                                               本年もどうぞよろしくお願いいたします。

                                              2013年12月29日日曜日

                                              学問とは“道”を求めること

                                               
                                               平成25年(2013年)がもうすぐ終わろうとしています。今年も次世代を担う子供たちの育成,教育に尽力された方々本当にお疲れ様でした。今年の締め括りとして学問(学ぶ)ということについて雑感を綴ってみたいと思います。
                                               

                                               本来学問とは“道を求める心”で昔は命懸けのことであったようです。禅宗第二祖の恵可禅師(達磨大師の弟子)は,入門を断られ雪の中で何日も待った挙げ句,臂を切断して達磨大師に差し出し,ようやく入門を認められたといいます。有名な「恵可断臂(えかだんぴ)」の逸話です。
                                               そこまでする人は現代にはいないし,同じようなことを師(先生)が求めたら今ならいじめどころではなく裁判沙汰になるでしょう。しかし,本当のことを知りたければ,自分の体ははどうなってもいいという古人の姿勢には頭が下がります。精神力は肉体を超えるのかも知れません。
                                               

                                               また,お正月には初詣をしますが,今年は御利益を求める前に,本当のことを追求する心,他人の幸福,社会の安定,人類の未来について真剣に祈り,考えてみてはどうでしょうか。そういう生活をしていると喫緊の些末な悩みなどは知らぬうちに消えてしまうものだと思います。まさに聖書の「先ず,神の国と神の義とを求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」という聖句は真理であると思います。
                                               
                                               

                                               とはいえ,人はどんなに頑張っていても,スランプみたいなものがやって来る時があります。誰もがその時に気落ちしたり,自暴自棄になったり,病気にもなったりします。そんな時はどうしたらいいか・・・。無茶をしないで,普段出来ない事や普段出来ない書物を読んだりして,それこそ“道”を求めてみたらどうでしょうか。
                                               もっともっと深い勉強,真理の探究,自分を見つめ直す静かな時間。年末年始はそんなよい機会ではないでしょうか。
                                               最後に私の好きな句をご紹介して今年を締め括らせていただきます。
                                               読者のみなさんどうぞよいお年をお迎えください。
                                                 「徒に 過ごす月日は多けれど 道を求むる 時ぞ少なき」 ー道元禅師ー

                                              2013年12月16日月曜日

                                              表現力を磨くコツ

                                              小学校教諭のY・Sです。
                                               今年も12月の中旬に入りました。まさに「師走」で忙しい時期ですが,あと一息,乗り切りましょう。
                                               

                                               さて,この時期はよく子供たちに「今年の思い出」や「来年の目標」を作文に書いてもらったり,短い標語にして教室に掲示したりします。でも,ただ書かせると「○○したことが楽しかったです。」「○○さんが○○をがんばってすごかったです。」「来年は○○をがんばりたいです。」といったありきたりな表現が多くなります。そこで私は一つ提案をします。「“がんばる”とか“すごい”とかいう言葉以外に気持ちを伝える言葉をさがそう。」と。
                                               「頑張る」「凄い」は「努力した」とか「飛びぬけて優れている」という意味が確かにありますが,どちらかというと「我を張る」「甚だしい・気味が悪い」という意味合いの方が強いことを具体例を揚げて説明します。高学年でこの話をしたとき,ある児童が,「なるほど。凄いという漢字はにすいに妻と書きますね。つまり,“氷のように冷たい奥さん”という意味ですね。」と発言し,「それは確かによくない言葉だ。」笑い声とともに友達から賛同を得ていました。
                                               こうした説明と提案をしてから文章を書かせると,子供たちは真剣に具体的な表現を考えるものです。例えば,「運動会では100m競争でもう少しで抜かれそうになったけど,がんばって最後まで全力で走りました。そしたら1位になったのですごかったです自分に自信がつきました。」など。
                                               

                                               最近はあまり細かいことを言うとそれこそ「うざい!」などと拒否反応を示す子供や親御さんが多くなったようですが,しっかりと教師側の意図を説明してあげると納得してそれに応えてくれるものです。

                                               
                                               

                                              2013年11月18日月曜日

                                              子どもはみな「観音様」

                                              小学校教諭のY・Sです。
                                              私が教員採用試験を受けたときの小論文の課題は「音」でした。その時私は,「ロジャース」のカウンセリング理論について記述し,最後に「観世音菩薩」について書いた覚えがあります。『すべての人々の心の声を聞いて救いをさしのべる観世音菩薩のように,私は子どもたちの心の声を受け止められるようになりたい。』そのような内容の文で締め括りました。結果はみごと合格。今の私がいます。
                                              最近,その観世音菩薩(=宇宙に満ちる観自在の原理)について分かりやすく説かれた長編詩が世に出ました。私の一番好きな一節を抜粋させていただきます。

                                              『天の童子答えて曰くー 「されど吾に完全は見えず,不備や欠陥不足・不如意の多き世界のみ見ゆるなり」。
                                              天使い説き給うー それは汝が“神の子”たる証なり。汝の内に“完全”の宿る証拠なり。“完全”の尺度もちて自己を測り他人を測り社会を測るが故に,足らざることのみ見ゆるなり。“完全”の世界を今見んと焦燥すれば,不足を想い不如意を感じ苛立つ心起こるなり。現象の中に完全を求むることなかれ。現象は時間と空間の制約を通し実相が展開する過程なり。過程は常に中途にして完璧ならざること,楽曲が中途で完結すること能わざるが如し。汝,人生の楽曲を正しく味わうべし。曲の最中に完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。曲は必ず完結するが故に,心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。世界の実相,必ず完全なるが故に,創造神を信じ人生の変化と多様な進展を味わうべし。』

                                                            谷口 雅宣 著 「観世音菩薩讃歌」ー生長の家 発行ーより

                                              子どもに限らず,人に対して不完全と見て苛立ったり,争ったりするのは,実はその奥にある「完全なるもの」を表現させたいという「愛」から発するのだとわかりました。その愛の表現を上手にすることで人間関係も,子どもとの関係もよくなるのだと思います。