2015年5月22日金曜日

信じる心

小学校教諭のY・Sです。



 私たち教職員は「学校」という一つの組織の一員でもあります。そして,多くの小・中学校の教員は地方自治体の「公務員」でもあります。組織の一員であり公務員であることはその中での規則や法令を遵守することはもちろんのこと,職場でのルールや人間関係にも心を配らなければなりません。そこには必然的に自分の考えや信念と整合しないものごともあると思います。
 よく,教育に情熱があり子ども達のことを本当に考える先生ほど悩むことが多いと言われるのはそのためかも知れません。そのために教育現場に失望して去って行ったという先生を私も何人か知っています。
 しかし,どんな法律や組織のルール,さらには不文律からも自由なものがあります。それは「信念」です。どこまでも子ども達を「信じる心」です。
 私もいわゆる「荒れた学級」を担任したことが何度かあります。そのときに,どんな指導方法やお説教よりも効いたのがどこまでも子ども達を「信じる心」でした。それは一言で言うほど簡単なことではありません。一種の「行」でありました。
 例えば,授業が始まっても教室内が騒然としている状況を考えてみましょう。優しく「静かにして席に着きなさい」といってもだめな場合,大きな声で叱責すればその場は何とか教師の威圧感で収まるでしょう。しかし,そのうちにまた一部の子ども達が騒ぎ始めます。また注意しても騒ぎ始め,その内に起ち歩く子も。収拾がつかなくなります。私だったらどうするか。ほんの一例ですが,実践してきたことをご紹介します。
 先ず一言は指示します。「授業を始めるので席に着きなさい。」(着きましょうではなく,始めから着きなさいでよいと思います。教師は指導者なのですから毅然とするべき時は命令口調で)一言で事態が収まらない場合きちんとしている子どもを褒めます。普通はこれで静かになります。しかし,荒れている学級の場合それも通用しないことがあります。そこで私は教卓の前でじっと目を瞑ります。そして,心の中で
「この子ども達の騒いで言うことを聞かない姿は仮の姿である。これは私の心が騒いでいて落ち着かないのである。その心が子ども達に反映して騒がしい姿となって現れているのだ。ああ,この子ども達は騒がしく,言うことを聞かないのであるという間違った私の思いを神様どうか改めさせ給え。本来子どもはみな神の子であって,勉強は楽しいのであるから授業が始まったら落ち着いて先生の話を聞くのだという信念を私に強く持たせてください。」

 このような言葉を念じている内に教室内はいつの間にか静かになってきます。私が目をあけると,そこには先ほどまで騒いでいた子どもの姿はどこにもありません。みんな穏やかな目をしてこちらを見つめています。私はその時,思わず「ごめんね。」と口にしそうな時がありました。つまり,「先生の君たちを見る目が間違っていて君たちを騒がせていた。許してね。」といった気持ちになったのです。
 少々ドラマチックな場面に見えますが私の本当の体験です。もちろん,その場だけの信念ではなく,日々の生活や祈りの中で育まれた信念です。「信じる心」の強さも教師の指導力であると私は信じます。  

1 件のコメント :

  1. 良いお話ありがとうございます。信じる心は本当に大切ですね。

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