2013年9月10日火曜日

外見が変な学生にどう接するか?

大学教授のM. Y. です。

最近は、大学生でも髪の毛をいろんな色に染めたり、おかしなところにピアスをしたり、ズボンの位置が下がりすぎていてパンツが見えてしまっていたり(いわゆる見せパン!?)など、外見がチョット変な学生が増えてきましたよね…。

そんな学生には、一体どんな気持ちで接したら良いのでしょうか?

ここに参考になるエピソードがありますので、ご紹介します。生長の家の前総裁・谷口清超著『無駄なものは一つもないーー人生問答集』(日本教文社)の154頁以降に書かれている実話です。

愛知県に迫千代子さんという足の不自由な人がいました。生長の家の信徒の方で、杖で歩いている人です。

この人がある時電車に乗って、空いている席を見つけて腰を下ろしたら、そこに親分みたいな少年と子分みたいな少年がやってきて、「そこは俺の席だから、立て」と言って、そこへ腰掛けたのだそうです。

随分ひどい話に思えますが、この千代子さんは足が不自由であるにもかかわらず、少しも怒ることなく立ち上がって、彼らの頭を見た時、その15〜16歳くらいの少年の頭の毛が、鶏冠(とさか)みたいにカチカチに固めてあって、おまけに根っこの所から緑色と黄色できれいに染めてあって、それはそれは、すごかったのだそうです。

それを見た時にびっくりして、思わず「まあ!あなた達、自分で髪をセットなさったの? おばさんは、とてもこんなに立派にセット出来ないわ。あなた達は、とても手が器用なんだわ」と言って、それを賛嘆したというのです。

そうすると、最初はうるせえオバサンだなあというような顔をしていたらしいのですが、それからも親しく話しかけてあげていると、そのトサカ少年が「オバサン、座れよ」と言ってくれて、手提げを持ってくれて、横に座っていた子分が千代子さんの背中に手を廻して、彼女が腰掛けやすいように手伝ってくれたのだそうです。

そして、いよいよ千代子さんが降りる駅に着くと、千代子さんの手提げを持った親分が先頭に立って、次を千代子さんが行き、後ろに子分が付いて異様な光景で歩いて行くのを、たくさんの乗客が不思議そうに眺めていたというのです(笑)。

このように、たとえ見せかけはヘンチクリンな恰好をしていても、みな神性・仏性それ自体ですから、どこかにいい所が必ずあります。それを認めて褒めてあげると、心を開いてくれるのです。

ところで、その後、この親分・子分の少年二人は、この迫千代子さんの導きですばらしく更生していくことになるのですが、詳しくは『無駄なものは一つもない』をどうぞお読み下さい。

また、一見悪く見えることでも、観方を変えれば、その奥にある善性を認めることができることについては、生長の家創始者・谷口雅春著『生命の教育』(日本教文社)の「第三章 無軌道の教育法」に詳しく書かれていますので、ご一読をお勧めいたします。


大学教授 M. Y.

2013年9月8日日曜日

「聖職者」を実感させられた“あの日”

小学校教諭のY・Sです。
教師は「聖職者」だと自覚しながら教壇に立たれている先生方がどれだけいらっしゃるか分かりませんが,私は少なくとも「聖職者たれ!」と自分に言い聞かせながら教師を続けてきたつもりでした。もちろん私自身,聖人・君子でもありませんし,周りの誰もそう思っていませんが。でも,それをめざしたいとは常に思っていました。しかし,“あの日”…。

平成23年3月11日
 私の居住地・勤務地とも東北地方の太平洋側内陸部にあります。あの日の午後2時46分。低学年を担任していた私はほんの5分前に子供たちを下校させ,まだ教室に残っていた子供たちといました。トイレに行った児童を教室の机の下にもぐらせたと同時に激しい揺れと校舎の軋む嫌な音が聞こえ,立っていることはできなくなりました。私は必死に子供たちに「大丈夫だから落ち着け!」と自分に言い聞かせるように繰り返していました。とても長く感じる1分ほどが過ぎて揺れがやや弱まり,校庭に避難しようとしたその時,大きな地鳴りとともに猛烈な揺れがきて,最後まで落ちずに踏んばっていた底の広い花瓶が落ちて割れる音がしました。「なんだこれは!校舎が倒壊する!」そう思った時私はおもわず子供の机を揺れないようにしっかり押さえていました。「この子たちは俺が命をかけても守る!」頭に浮かんだのはその言葉でした。“殉職”という文字も脳裏をよぎった後,家族の顔が浮かんできて,ようやく冷静に周囲の状況を把握できるようになったとき揺れも収まってきて校庭に避難することができました。校庭にはすでに多くの子供たちが避難し,女児の中には大声で泣いている子もいましたが,それをなだめる気持ちにはなれませんでした。校庭もまだ立っているのがやっとなほど揺れていて,一部地割れがしているのを目の当たりにしてしまったからです。
 

 あのとき,思わず「命をかけても子供たちを守る!」という気持ちが起こり,体中にビリビリと電気が走った瞬間を今でも鮮明に覚えています。そしてわたしは初めて「教師という仕事はやはり“聖職”なんだ。」との実感をさせられた思いがしました。同時に「自分にもそれをめざす資格はあるようだ。」との自覚と自信をを得ることができました。
幸い私の勤務校の子供たちと職員,家族はみな無事でした。

 『東日本大震災』からもうすぐ2年半が過ぎます。亡くなられた方々のご冥福と被災地の1日も早い復興を祈りつつ。

2013年8月21日水曜日

自己讃嘆ノートで生徒に自信を!


学習塾講師のA.Mです。
 
前回書き方を説明しました、塾の生徒たちの自己讃嘆ノート 
『私は素晴らしい存在だから 自己讃嘆で未来を拓く
    希望実現のためのノート』
に 実際に書かれた言葉を紹介します。(原文のままです)

<自分のいいところ>
  〇バスをおりる時、運転手さんにお礼を言う。
  〇みんながどんよりなっている時、もり上げれる。
  〇ケンカをしても、すぐにあやまって仲直りができる。
  〇ラインズマンができる。
  〇物を最後まで使う。
  〇出欠黒板をかかさずかきにいっている。
  〇動物に優しい。
  〇自分の気持ちをコントロールできる。
  〇本をよく読む。

<家族のいいところ>
  〇家族みんな、友達が多い。
   〇母さんの免きょは「ゴールドメンキョ」だ。
   〇妹は練習を休まない。
   〇母さんは、学校の行事によくきてくれる。
   〇父さんは、だめなことは「だめ」としっかりしかれる。
 
毎回十個書いていると、う~ん、他には…と、一生懸命探すようになります。
どんどん、いいところが見つかってくるのです。
そして、「自分も家族もいいところがいっぱいあるなぁ」と思うようになります。
自分を肯定的に認めることができるようになると、
努力した分、どんどん花開ようになりますね。

もちろん、途中には、こんな会話もあります。

生徒 「もうこれ以上いいところはない!」
      「もう書けない」
私  「自分は健康だ、って書いたことある?
      自分は毎朝 歯を磨く、って書いた?」
生徒 「それは 当たり前のことで、いいことじゃないです。」
私  「当たり前って 世の中にない
    あなた、生まれた時から歯磨きしてた?
    お母さんとあなたと、毎日毎日努力してつけてきた素晴らしい習慣よ。
    お母さんと自分の努力の結晶よ。
    今健康なのだって、有り難い、すごくいいことよ。」

すると、当たり前と思っていた、小さなことだと思っていた、いろいろなことにも
スポットライトが当たり始めるのです。

  〇視力がいい。
  〇朝は自分で起きる。
   〇遅刻したことがない。
   〇自由に走れる。
   〇むだなしぼうがない。
   〇にこにこと笑える。
   〇くつのかかとをつぶさない。
   〇自由に息ができる。

こうなると、
「自分で気付いていないだけで、いいところはもっともっとたくさんあるんだ! 
 自分は恵まれているんだ!」
と思えるようになり、しっかりした自信がついてくるようになるのです。

素晴らしい生徒の素晴らしい自己讃嘆のことばをいつも読める、私も幸せです!
 

2013年8月13日火曜日

いじめ問題は解決する ― 日時計主義の教育を ― (訂正版)


 高校教諭のK.Oです。                                

  かつて、いじめの問題を指導しました。1人の女子生徒がターゲットにされ、3~4人の男子生徒からいじめられた事件でした。携帯電話に悪口のメールが送られる。それも複数から集中的に繰り返して。教科書等も隠されたり、いたずらされることが頻繁に起こったのです。それが発覚し、加害者の男子生徒は無期停学処分となりました。

  私は指導担当として、長期間彼らを指導することになったのです。授業には出席できないので、主に清掃等の奉仕作業・読書・反省文・面談を行いました。面談では生徒の話を聞きながら、人間は神の子でみんな素晴らしい生命であること、また愛と感謝についてや思いやりのある生き方等を話しました。とくにノートを1冊用意させ、自分と周囲の人達の良いところをさがして、書くことを指導したのです。自分の良いところを5つ、友達の良いところを5つ毎日毎日書かせました。

  はじめはなかなか書けませんでしたが、だんだん書けるようになっていきました。つまり光明面を見て、日記を毎日書いたわけです。今思えば、この日時計主義(*)の日記を中心とした、日時計主義の教育が彼らが立ち直る一番の力になったと思います。その後、彼らは処分解除となり、教室に戻ることができました。女子生徒も男子生徒たちも無事卒業していきました。

生長の家総裁、谷口雅宣先生は次のようにご教示くださっています。

   この日時計主義の生き方をしていれば、「物がほしい」とか「遠くへ行きたい」とか「まだ足りな い」とか「不安である」などという一種の精神的飢餓感から解放されます。今の日本には物があふれているのに、そういう“心の貧困”があります。物が多いことで、かえって精神が飢えている――そういう物質主義的な生き方から抜け出す道が生まれてくるのです。価値観の転換が行われて、外から何かを付け加えることで幸福を感じるのではなく、内部の神性を開発することに喜びを見出す。他から奪うことではなく、他に与えることで充足する――そういう新しい人間の生き方が広がっていく。
           『次世代への決断―宗教者が“脱原発”を決めた理由』178179

  生徒たちは物をあふれるほど与えられているが、心が貧困で満たされていなかったのでしょう。いじめ問題は必ず解決します。本来、実在世界にはないからです。生徒の欠点、悪いところを指摘しても解決しません。いじめをさがしだすだけでは、なくならないのです。すべての生命、植物も動物も鉱物もその生命を愛し大切にするこころは、自分や友達の良いところを見て思いやる生き方に生長します。

  良いところ、明るい面を見る日時計主義の教育を実践しましょう。
  自然界に、教え子に、先生方に神の愛を与えましょう。
                                                                                                                               K.O
        
    * 輝く喜びの時刻のみを記憶し、語り、思い出す生き方

       (投稿者K.Oに訂正しました)



(

2013年8月12日月曜日

解放と引き出しの教育


高校教諭のK.Oです。 

「O君、よく髪を切って直してきたね!合格!」と私は褒めて握手をしました。かつて、O君は入学してから約7ヵ月間、ずっと茶色に染めた長い髪をしていました。月1回の指導で毎回のように注意され、それでも彼の髪の毛に全く変化はありません。ついにO君の母親に来校願って、指導をしてもらうようお願いしました。しかし余計に反抗的な態度にエスカレートしていったのです。私は困ってしまい、『生命の教育』(谷口雅春先生著)に救いを求めました。すると本書には、次のように書いてありました。 

子供を善に導くにはなるべく叱らない方がよいのだ。叱るということは子供の心に悪しき行為を二重に印象することになるのであって、今度またその悪しき行為を自然的に繰り返そうとする傾向を助長するものである。(141頁) 

私はハッとし、生徒の欠点を見て良くしようと、力が入っている自分を反省しました。私はO君の「完全円満な“神の子”」のすがたを祈り、明日の指導はさらりと流そうと考えていたのです。すると翌日O君は髪の毛を切っており、他の先生方も皆、驚いた様子でした。 

児童・生徒の指導には、解放と引き出しの二方面が整うとき、効を奏します。 

                                   K.O

2013年8月11日日曜日

道徳の授業で子供は変わる

 
 小学校教諭のY・Sです。今日は8月11日。東日本大震災から2年5ヶ月が経ちました。なので今日は三陸の沿岸部へ足を運んできました。
 

 実は,あの大震災の津波で犠牲になられた方のエピソードが,ある県の道徳の副読本に採用されています。巨大津波から防災無線で多くの町民を避難させ,自らは犠牲になられた女性職員の話です。確かに彼女の行為は自らの責任を全うした尊いものですが,安易に美化するのはご遺族のお気持ちを察すると疑問に思えます。私は話を聞かせるよりも,中学生以上の生徒なら現地へ連れて行き,手を合わせたあとでそれぞれの思いを伝え合う方がいいと思います。その悲劇の場となった庁舎跡はまだそのままであり,今でも多くの人が県外からも花やお線香を手向けに来てくださっています。(私も本日立ち寄って手を合わせてきました。)
 関連の動画を参考のためにリンクしておきますので,ご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=M-neskB4FOc&feature=related
 
 

 さて,小・中学校で道徳の授業の大切さを叫んでいますが,実は昭和33年に教育課程の中に位置づけられていながら,つい最近まではあまり熱心に研究されていなかったのが,道徳の授業です。その背景には戦前の「修身」が価値観の押しつけや軍国教育に利用されていたからという理由もありますが,「自分にはそんな徳性はないから教えられない」という教師の自信のなさが大きかったのではないでしょうか。現在の道徳は,児童・生徒に道徳的価値について考えされるものが主流となっていて,決して徳目を押しつけるものではありません。指導する教師自身も一緒に学べる,楽しい授業が道徳です。子供たちも必ず変わります。

 今後は,私の拙いけれども精一杯実践した道徳の授業実践もご紹介していこうと思います。

 

2013年8月7日水曜日

先ず認めてあげると,問題児はない。

小学校教諭のY・Sです。

 今日は10年以上前の教え子との思い出を書きます。その子は今年もインターハイに出場しました。地元の新聞に写真付きで載っていたので,懐かしく,嬉しくその子のことを思い出しました。
 その子はいわゆる「問題児」で「LD」と「ADHD」の疑いがありましたが,私とのかかわりがきっかけでやる気を出した・・・ようであります。その子は,困ったことや嫌なことがあると,何かお経のようなものをぶつぶつと言って気味が悪いと前担任から申し送りがありました。ある日,放課後2人きりになったときにこんな会話がありました。

 

T:「さっきの授業中,何をぶつぶつ言っていたの?」
C:「観自在菩薩行深般若・・・。」
T:「それは般若心経だね。先生も言えるぞ。」
T:「色不異空 空不異色, 色即是  空 空即是色・・・
C:「え?何?何で知ってんの?」
T:「・・・掲諦掲諦波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経   ~。」
C:「先生,僕先生に着いていきます。弟子にしてください!」
T:「真面目にやるか?」
C:「はい,やります!」

 それ以来,その子とは仲良くなりました。彼は本来の力を徐々に出し,その後得意な運動を中心に大活躍していきます。彼が「般若心経」を唱える理由は,おばあちゃんが「孫が勉強できるように」と毎日仏壇で唱えていたのを聞いていて覚えたからのようです。
 その子は元々記憶力もよく,その後学習面でもぐんぐん伸びていきました。一見マイナスや変わった言動と見えることも頭から否定せず,それを先ず認め理解してあげることで,子供は心を開いてくれるものだとその時実感しました。